貧乏人よ。這い上がってこい

人間にとって平等のものとは

「人は生まれながらして平等である。」

そう信じて、幼少の頃はなんの疑いもせずに生きてきた。

そして、幼少の頃はそれでも何の問題もなかった。そう、それは無知であったからである。

しかし、人は成長について無知であることを知る。すなわち、「無知の知」である。

知った時に、初めてこの世界における自分の位置づけを認識する。いや、もしかしたら、未だに自分の位置づけでさえも正確に認識できていないのかもしれない。

とはいえ、自分の位置づけを知ると、自分がいかに下の階層を生きていたのかを知ることになる。

もちろん、私は、幸いなことに家があったことを考えると最下層にはいなかったのであろう。

もし、貧富を上流、中流、下流に分けて、さらに上流、中流、下流を上・中・下の3段階に分けた場合、私の幼少の頃は下流の上といったところかと思う。

いずれにしても、社会を知った際に自分の位置づけを知ることになる。もちろん、貧富の差がイコール不幸につながらない。

事実、私は幼少期それなりに楽しく日々を過ごしていたように思う。

しかし、自分の位置づけを知った際に、なぜか今まで不幸などはとは、考えなかったのに、急に不幸になったような気がしたことを覚えている。

この社会における自分の貧富の位置づけを知った際、ひとつ気づいた。そう、「人間は平等ではない」

人間が平等であれば、よーいドンで神石をスタートし、みんなのうち多くは一緒のペースで人生を歩めるはずのなのである。

しかし、世の中はそうなっていない。

そう、貧乏人は生まれながらしてハンデを負っているようなものと考えている。

このハンデを跳ね返すには、凄まじいエネルギーが必要となることから、通常、貧乏人は貧乏人のまま過ごしていく。

それが、世の自然な形なのであり、まさに弱肉強食と言えるのではないのではあろうか。

人間は、生まれながらして、知能、運動能力、容姿、身長、体重、言語能力、理解力等様々な違いを持っているが、同じ能力は有していない。

まさに、人間は生まれながらにして平等でなく、平等をいくら唱えても平等になること等ないとさえ考えている。

しかし、そのように考える私も、1つだけ平等であると考えているものある。

それは、

「1日24時間あるということである」

この点だけは唯一平等なのではないかと考えている。もちろん、寿命は人それぞれ異なることから、その長さは違うが、1日は24時間であることだけは確かである。

この24時間をいかに使うよって、大きく変わる。特に私は世の中の8割は凡人であると考えているが、その凡人が以下に他の凡人に差つけられるかは、この24時間をどのように使うに尽きるのではないかと考えている。

将来のために努力している人とただ、だらだらとスマフォいじっている人では、1日では大した差はつかないが、1カ月、半年、1年と年を負うことに差が大きくなっていくのである。

この平等に与えられた24時間をいかに使うかが、今後の人生をどう切り開くかを決める大きな鍵となることは間違いないかと思う。

-貧乏人よ。這い上がってこい

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